一
遠野ハンナがあの掘っ立て小屋(へ戻ったときには、もう日が暮れかけていた。
彼女は扉の前で、長いこと立ち尽くしていた——もっとも、蝶番(が外れて壁に立てかけてあるだけのその板切れを「扉」と呼べるならば、の話だが。
幼い頃は、この家を広いと思っていた。飢えと、泣き声と、湿った布団と、壊れた鍋と、寄り添って眠る弟妹(たちの体——そして、いつも俯(いている母の背中。それら全部を収めてなお広い、と。あの頃は夜中に誰かが寝返りを打つたび、家ごと軋(むような音がしたものだった。
それが今、惨(めなほど小さく見える。板壁は傾(ぎ、窓枠には古い埃(が積もっている。風はひとつの隙間から忍び込み、別の隙間から抜けていく。屋根の片隅は、青い防水布で雑(に覆われていた。
ハンナは扉に手をかけた。
きっと自分は泣くだろう、と思っていた。けれど、涙は出てこなかった。
中には、長らく人の絶えた黴(臭さに、薬草と、冷えた灰と、湿った木の匂いが入り混じっていた。一歩踏み入れたその瞬間に、ハンナは悟った——誰かが、ここに帰ってきていたのだ。記憶のなかの光景とは違う。
竈(の傍(らには、雑(に割られた薪(が幾本(か積まれている。机の上には欠けた湯飲みがひとつ、底に乾いた薬の滓(が沈んでいる。隅には敷きっぱなしの布団が、ぺしゃんと潰(れていた。誰かが起き上がったきり、もう戻ってこなかったかのように。
ハンナは戸口で立ち止まり、それ以上奥へ進もうとはしなかった。ふと、馬鹿げた考えが胸をよぎる——母は、まだここにいるのかもしれない、と。
あの女が竈の陰から顔を上げ、記憶よりずっと老け込んだ顔で、何でもないような声でこう言うのかもしれない。お帰り、と。
そのとき、ハンナはなんと答えればよいのだろう。
笑ってみせればいい。背筋(を伸ばしてみせればいい。軽やかな、わざとらしいほど気品のある声で、こう——
「あらまあ、娘を一人きりに残して何年もご平気でいらっしゃるなんて、お母様も随分(と余裕でいらっしゃいますこと」
語調まで、すでに胸の内で用意してあった。
けれど、家のなかには誰もいなかった。
ハンナの視線が、机の角に落ちた。そこには、本来あるはずのないものがあった。掌(ほどの石。その下に、重ねられた便箋(の束。一番上には、すっかり褐色(に枯れた一枚の葉が、栞(のように挟(まっている。
ハンナはそっと石をどけ、枯れ葉を摘(み上げた。すると、震(えた線で書かれた数文字が、目の前に現れた。
『ハンナへ』
一目で、誰の筆跡(かわかった。蚯蚓(が這(ったような、不器用(な線。
「嘘でしょう……」
最初の便箋は薄く、隅に薬汁の染(みがついていた。便箋を取り上げる指先が、小刻みに震(えていた。冷えた風のせいなのか、怒りのせいなのか、それとも衝撃のせいなのか——自分でも、わからなかった。
ハンナはそろそろと便箋を広げた。何度も折り畳(まれた跡(が、紙面に幾筋(も走っている。
手紙の冒頭(には、こう書かれていた。
『ハンナへ。
あなたはもう、これを読むことはないでしょう。少し前、あなたの死亡通知が郵便受けに届いたから。だから、これは届かない手紙です。それでも、どうしてもあなたに言っておきたいことが、私にはあるのです』
死亡通知——きっと、自分が連行されたあとに役所が手配したものだろう、とハンナは思った。続きへ目を走らせる。けれど、そこに記されていたのは「ごめんなさい」でも「愛している」でもなかった。たった一行。
『私が家を出ていった、最初の夜。よく眠れました』
ハンナの手が思わず強く便箋を握りしめ、紙に深い皺(が刻まれた。
思わず、声を上げて笑い出しそうになった——そういうことだったのか。
『一晩中泣きました、と書くべきなのでしょう。あなたたちのことを思うと息もできなかった、と書くべきなのでしょう。でも、それは本当ではないのです。
本当のことは、こうです。あの夜、私は生まれて初めて、子供の泣き声を聞かずに眠った。咳き込む声もしなかった。ひもじい、と訴える声もしなかった。私の裾(を引いて、明日のごはんはあるの、と尋ねる子もいなかった。見知らぬ寝台に横たわった私の足元で、丸まって眠る子は、ひとりもいませんでした。
目を覚ましたとき、それはこの上なく軽やかな朝でした。抱き上げなければならない子もいない。手を引いてやらねばならない子もいない。足にまとわりつく子もいない。
それから一週間、私は涙をひと粒(もこぼさなかった。あなたたちの顔さえ、ほとんど思い出さなかった』
ハンナは手紙を、机に叩(きつけた。
木の机が、くぐもった音を立てた。便箋は宙でくるりと一回転し、壁に届く前に、力尽きたように途中で床に落ちた。
胸が激しく上下する。目が乾いて、ひりひりと痛んだ。誰かを罵(りたかった。湯飲みを叩き割りたかった。これらの手紙を一通残らず竈に放り込みたかった。何もない部屋に向かって、叫びたかった——
——なら、なぜ戻ってきたの。そんなに軽やかだったのなら、なぜ今さら、ここを汚しに戻ってきたの。
けれど、声に出すことはなかった。
ハンナはただ、立ち尽くしていた。
そのとき、ふいに、ずっと昔のあの夜のことが頭をかすめたからだ。
母が出ていった朝。遠ざかる足音。続いて響(きはじめた弟妹たちの泣き声——あれは、ハンナの人生でもっとも恐ろしい朝のひとつだったのかもしれない。けれどその夜、すべての泣き声がようやく疲れ果てて静まりかえったとき、ハンナは闇のなかで目を見開いたまま、自分の胸の奥で、ひどく小さな、けれどひどく邪(な声がささやくのを、確かに聞いていた。
——一人、減った。竈の脇に黙って座り、家を冬より冷たくしていた人が、一人減った。食べさせなければならない口が、ひとつ減った。
その声は、ほんの一瞬よぎっただけで、すぐに恐怖と羞恥(に押し潰(された。それ以来、ハンナは自分にそれを思い出させることを、二度と許さなかった。
——今、この瞬間まで。
ハンナは机の縁(に手をついて、ゆっくりと腰を下ろした。
急に、吐き気がこみ上げてきた。
二
二通目の手紙はもう少し長かった。文字と文字の間隔(が揃(っておらず、書きながら何度も筆を止めたのだろうと思われた。
『ハンナ。私はね、あの家を出ていったその日に、急にだめな母親になったわけではないのです』
ところどころ、文字が水滴で滲(んでいた。薬の汁か、涙か。ハンナにはわからなかった。わかりたくも、なかった。
『ずっとずっと前から、私はあの家にはいなかった。たとえご飯を炊(き、洗濯(をし、あなたたちに「うるさい」と怒鳴(っていたとしても。
最初のうちは、まだ覚えていられた。誰が昨日(熱を出したか。誰が朝にお腹を空かせていたか。誰の靴底(が、剥(がれかけているか。
あるとき——もうそれが何月何日だったかは思い出せないけれど——誰かが泣いていても、それがどの子の声なのか、私はもう、聞き分けられなくなっていた。
すべてが、ひとつの音になった。すべてが、ひとつの言葉になった——「面倒(」。それからの毎日、私はただ、どうすれば自分の面倒を少しでも減らせるかを、考えて生きていた。
あの日、家を出ていったのは、ただ最後の一歩を踏み出しただけのこと』
ハンナは一行ずつ読み進めるうちに、ただ体が冷えていくのを感じた。
ハンナはこの手紙が嫌いだった。この手紙はどこか、彼女が認めたくない何かに似ていたから。
妹が熱を出したあの日は、ハンナがこっそり抜け出して魔法の練習をした最初の日ではなかった。
それまでに、何度も、何度も、繰り返していた。
最初は、廃倉庫(で自分の体がふわりと浮かびあがることに気付いた、あの瞬間だった。喜びと驚きに、息さえ忘れた。あのとき、ハンナは掘っ立て小屋の姉ではなかった。洗濯をし、ご飯を炊き、弟妹たちを寝かしつける人ではなかった——空を飛ぶ少女だった。少女漫画のなかで運命に選ばれる、ああいう側の人間だった。
それからハンナは、こっそりと練習を重ねるようになった。
最初は、ほんの数分だった。
すぐ帰るから、と自分に言い聞かせた。妹はもう寝ているのだから、何かあるはずがない。魔法をきちんと身につけたら、もっと高く飛べる。もっと多くのことができる。そうすれば、弟妹たちをここから連れ出すこともできる、と。
なんと美しい理由だろう。
まるで飴(の包み紙のような——けれど、その内側に包まれていたのは、飴ではなかった。
ハンナは妹が熱を出したあの日に、はじめて妹を見捨てて悪い姉になったわけではなかったのだ。
その思いが、針のように胸に突き刺さった。
ハンナは勢いよく立ち上がった。もとより不安定だった椅子が、がたん、と音を立てて後ろへ倒れる。
「違いますわ」
その声は、家のなかへ向けてつぶやかれた。
ハンナの声はあまりに小さく、反論というよりは、嘆願(のように聞こえた。
「違いますわ……わたくしは、あなたとは違いますの」
誰も、答えなかった。
竈のなかの冷えた灰は、黙(っていた。壁際(の布団も、黙っていた。あの手紙の束も、黙っていた。
ハンナは身を屈(め、椅子を起こした。その動きはひどくゆっくりとしていて、まるで何かを起こしてしまうのを恐れているようだった。
三
三通目の手紙は短かった。ただ、筆跡はいくらか落ち着いていた。一度呼吸を整えてから書いたのかもしれない。
『あの日の言葉を、私はまだ覚えています』
ハンナは続きを読まなくとも、母がどの言葉を指しているのか、わかった。
『——お前は姉だろう。責任を持って、ちゃんと弟妹の面倒を見るんだよ』
ハンナの視線が、紙の上で凍(りついた。
『認めなくてはいけません。あれは、私が逃げるための口実(に過ぎなかった。あなたがまだ幼かったことは知っていました。あなたにできるはずもないことも、知っていました。
それでも、何も言わずあの扉を出ていったなら、私はただ子供を捨てて逃げた、ろくでもない母親なのだと、自分で認めるしかなくなる。
だから、母親がやるべきことを、あなたの手に押しつけた。そして自分にこう言い聞かせた——私は子供を捨てたのではない。ただ、頼りになるハンナに、家を任せただけなのだと。
あの日、私はあなたを信じていたのではない。利用したのです』
ハンナは顔を覆った。指のあいだから、小さな雫(がひとつ、こぼれ落ちた。
涙は、たった今、こぼれた。前触(れもなく。音もなく。
怒りに駆られるとばかり思っていた。けれど実際に襲(いかかってきたのは怒りではなく、あまりに遅れて訪れた、寒さだった。
あの言葉は、長いあいだ、ハンナのなかに住みついていた。
飢えよりも早く目覚め、眠気よりも遅く去っていく。鍋を洗うときにも聞こえた。冷えたご飯をこっそりひと口頬張(るときにも聞こえた。妹が泣きながら呼ぶときにも聞こえた。やがて島に渡り、死で満たされたあの牢屋敷(にたどり着いてからも、その声は消えなかった。
ただ、姿を変えただけだった。
——誰かが死んだのは、お前のせいだ。
——誰かが離れていくのは、お前が見捨てたからだ。
——誰かが苦しんでいるのは、お前がちゃんとやらなかったからだ。
お前は、姉なのだから。
お前が、責任を負わねばならないのだから。
ハンナは口を覆い、身を屈めた。
声を上げて泣くことは、しなかった。声を上げて泣くのは、あまりに子供じみていたから。そしてハンナは、もうずっと前から、子供ではいられなかった。
四
四通目の手紙は、文字がぎっしりと詰まっていた。
『私はあの家を出てから、一度もあなたたちのところへ戻らなかった。
もとの住所を、ちゃんと覚えていたのに。役所に電話を一本かけることだって、できたのに。
ほんの少しなら、お金が手元にあった時期もありました。手紙を一通書いて、切手を貼って、ポストに投げ込めばよかっただけのこと。
たったそれだけのことが、私にはできなかった。
なぜなら、私は毎日、すこしずつあなたたちのことを忘れようとしていたから。
新しく住み着いた町で、初めてこう尋(ねられたとき。
「お子さんは、いらっしゃいますか?」
「いいえ」と、私は首を振りました。
二度目に尋ねられたときには、こう付け加えた。「結婚も、したことがありません」
三度目には、もっと滑(らかに口にできた。
四度目、五度目。もう数える気もなくなり、覚えてもいられなくなった。
私はすこしずつ、「ずっと独り身で暮らしてきた女」になっていった。
あなたたち全員を、その数文字の裏側に隠してしまって——それから私は、ひとりきりで、別の世界を生きていたのです』
ハンナの胸の奥に、奇妙な静けさが、ゆっくりと広がっていった。ふと、あの牢屋敷の食堂のことが思い出された。空気が淀(んで、まずい食事しか出ないあの食堂——そこには、別の日々の、いくつもの記憶があった。
ハンナはそこに腰を掛(けて、ほかの誰かが家のことを、学校のことを、昔のことを語るのを聞いていた。ときには、話題がハンナのほうに転がってくることもあった。
——遠野ハンナお嬢様(が、隙間風(の吹き抜ける掘っ立て小屋から来たなどと、口にできるはずもない。
——飢えた弟妹たちがいた、などと、言えるはずもない。
——末の妹が家で高熱に苦しんでいたとき、自分は外で、もっと高く飛ぶための練習をしていた、などと、言えるはずもない。
だからハンナは微笑んでみせて、こう言うのだ。「わたくし、お金持ちのお家のお嬢様ですの」
一度目は、胸が締めつけられた。
二度目には、すらすらと言えるようになった。
三度目には、舞踏会(の細かな描写まで添(えられるようになった。
四度目、五度目になる頃には、遠野ハンナお嬢様の口は、ひとりでに、それらしい言葉を並べはじめていた。
「妹なんていません」とまで嘘(をついたわけではない。けれど、「わたくしには妹がおりますの」とも、口にしなかった。
死んだ妹を、ハンナは何度も、何度も、沈黙(のなかに置き去りにした。軽やかな言葉は、まるで腐(った木の板の上に、華やかな飾(り布(をかぶせるかのようだった。
——沈黙もまた、墓となりうるのだ。
ハンナはゆっくりと手紙を置いた。そのとき、ふいに気がついた——ハンナは、母が子供たちを人生から消し去ったことを、ずっと恨(んできた。
けれど自分もまた、妹を自分の物語のなかから、ずっと隠し続けてきたのだ。一度でも口にしてしまえば、もう優雅(な少女のふりは続けられない。いつかは光のあたる場所に戻れるはずの、ちょっとばかり運の悪いお嬢様、という幻想(も、続けられなくなるから。
——認めなければ。自分はあそこから来たのだ、と。
——認めなければ。あの掘っ立て小屋は、まだ自分の体に残っているのだ、と。
——認めなければ。一人の子供が死に、自分は生きているのだ、と。
ハンナの胸の奥で、何かが、きしむような音を立てた。屋根の破れ目から垂(れ下がった藁縄(が、風に揺(れ、擦(れ合うかすかな音を立てていた。
窓の外の空は、いっそう暗くなっていた。
五
『残された時間は、もうあまりありません。だから、いちばん大切なことを、最後まで書ききらなくては』
ハンナは五枚目の便箋を広げた。左上の隅に、淡(い染(みがひとつ残っていた。それが書き手の残したものなのか、読み手の残したものなのか——もはや、知りようもない。
『あなたの赦(しなど、欲しいわけではありません』
その一文を目にした瞬間、ハンナの口から、乾いた、小さな笑い声がこぼれた——もとより、母を赦すつもりなど、欠片(もなかったのだ。
『もしあなたがまだ生きていて、本当にこの手紙を読めるのだとしたら、こんな書き方をしてはいけないのでしょうね。死んだ者は、誰のことも赦せないのだから。
もしこれが「赦してはいけない」と命令しているように聞こえてしまったなら——ごめんなさい。
私を憎(んでいい。忘れてもいい。この手紙を燃やしてしまってもいい。何もしなくても、いい。
私がこれを書いたのは、あなたに「お母さんはこんなに謝(っているのだから、許してあげよう」と思わせるためではないのです。
ただ、死んでしまう前に、一度だけ、本当のことを言いたかった。それから、この罪を、自分の手で、墓のなかへ持っていきたかった。それだけ』
そのとき、ハンナはふと理解した。母がなぜ、この手紙をここに残したのかを。
奇跡(を信じていたからではない。
死んだ娘が帰ってくるのを期待していたからでも、ない。
これらの手紙は、ハンナに宛(てられたものではなかったのだ。
——あるいは、ハンナだけに宛てられたものでは、なかった。
母は、誰もいない掘っ立て小屋に向かって話していた。竈のなかの冷えた灰に向かって話していた。あの日、ここから出ていった、若(かりし日の自分自身に向かって話していたのだ。聞き手など、必要なかった。ついに、これ以上沈黙し続けることを、自分自身に許せなくなった。それだけのことだった。
そのことが、ハンナの胸に鋭(い不快感(をもたらした。
もはや、「ただ赦されたいだけの手紙」と切り捨てて軽蔑(することが、できなくなったから。
それでも、ハンナは赦すことができなかった。
——理解は、赦しではないのだから。
六
最後の手紙——というよりは、ただの一枚の紙きれだった。そこには、たった一行しか書かれていなかった。
『あの日、私があなたに背負(わせたものを——どうか、下ろしてください。それは、はじめから、あなたが背負うべきものではなかったのです』
残された広い余白には、もう何も書かれていなかった。書ききれなかったのか、書かないと決めたのか——それを知る者は、もう、どこにもいない。
ハンナはその一行を見つめ、ふっと笑った。
「遅すぎますわ」
と、ハンナは言った。
声は机の上に落ちて、跳(ね返らなかった。
「遅すぎたんですもの……」
ハンナはその紙を胸に押しあて、ついに声を上げて泣いた。
それは、ハンカチをそっと目尻(に押し当てるような、優雅(なお嬢様の泣き方ではなかった。
堤(が決壊(したように、奔流(となってあふれ出た——まるで、幼かった頃に戻ったかのように。
母が出ていった日のこと。
妹のあの高熱のこと。
夜のなか、こっそりと魔法の練習をしていた、かつての自分のこと。
それらの光景が、ハンナの頭のなかをぐるぐると回り続けた。
ハンナは、本気で信じていた。魔法を一生懸命(に練習しさえすれば、自分も、弟妹たちも、いや、もしかしたらほかのすべての人をも引き連れて、この泥沼(から、ずっと遠くへ飛んでいけるのだと。
けれど——そのどれも、起こりはしなかった。
ずいぶん長い時間が経ってから、ハンナはようやく顔を上げた。
家のなかは、いつのまにか、すっかり暗くなっていた。
ハンナは残り少ない薪(で、竈に火を灯(した。明かりが揺れ、机の上の便箋を照らし、そしてハンナの頬(に乾いた涙のあとを照らした。
ハンナは前の何通かを丁寧(に折り直して、もとの場所に戻した。
母には、ハンナのために何かを清(めてやる資格などない。死んだ者には、生きている者の痛みを片付けることはできない。母は本当のことを書き残し、そして死んだ。あとに残された乱雑(なものは、結局のところ、ハンナ自身が、一歩ずつ歩き抜けていくほかないのだ。
最後の一通だけは別に取り上げて、二度折って、ポケットの奥に納(めた。
これは、形見(ではない。
赦しでもない。
ましてや、和解(でもない。
ただ、ハンナが自分自身に知らせるための一通——もう、これ以上背負わなくてもよいものが、確かにあるのだ、と。
ハンナは部屋の隅(へ歩いていき、しゃがみ込んで、ぺしゃんこになった布団を整えた。手つきはたどたどしく、なんの意味もなかった。死んだ者がそれで少しでも安らかに眠れるわけでも、なかった。
それから立ち上がり、この惨めなほどに小さな掘っ立て小屋を、ぐるりと見回した。
壁の隙間から風が忍び込み、竈の火がふらりと揺らいだ。
ハンナは扉を押し開け、外へ出た。
夜の帳(はすでに降りていた。遠くに、灯(りはひとつもなかった。かつては、こんな暗闇のなかから、ハンナはこっそりと抜け出して、空を仰(ぎ、自分の体を地面から浮かせる練習をしていた。あの頃のハンナにとって、空を飛ぶということは、すべての重さから解き放たれることを、意味していた。
今のハンナには、わかる。それは違うのだと。
——消えてはくれない重さがある。
妹は死んだ。母は出ていった。ハンナ自身もまた、かつて逃げ出した。理解は、それらの重さをすこしも軽くしてはくれない。時間もまた、起こったことを正しいものに変えてはくれない。
けれど——そのすべての重さが、ハンナのものというわけでは、ない。
ハンナはポケットに手を差し入れ、最後の手紙の感触を、指先で確かめた。
紙の縁(はざらつき、わずかに指に引っかかった。
顔を上げる。夜空は低く垂れ、星は、ひとつもなかった。
しばらくしてから、ハンナはそっと息を吐(いて、前へ、一歩、踏み出した。
今度は、遠野ハンナは飛ばなかった。